必要なものは与えられている。

人生を楽しく生きてすべてを活かす挑戦

距離感

人の悩みの多くは他人に関係することだろう。


あちらこちらでよく、

好かれる人嫌われる人の特徴、とか、

嫌われないようにするには、愛されるには、

といったテーマで書かれている文章を見ることがある。


しかし、それらはあくまでも、

「特定ではない誰か」にとって、

好ましい行動、好ましくない行動であり、

その通りしたからといって好かれたり嫌われたりするかはわからない。



人が誰かとの関係で悩むときは、

恐らく、距離感を失っていることもあるのではないかと思う。


距離感とは、

自由を認める気持ちと言い換えることができるかもしれない。


知らず知らずのうちに、

相手の行動を操作しようとしていたり、

求められてもいないことを勝手にしていたりと、

相手に近づきすぎ、あるいは、

相手のことに首を突っ込んでいることもあるかもしれない。


また、相手に近づきすぎることで、

自分のバランスまでも失ってしまっていることもあるだろう。



他人の行動は他人が決めること、と離れてみること、

自分が楽しく過ごせることをして、

こころと体のバランスを取ることが、

結果的に悩みの改善に繋がることもあるだろう。


白紙に返す

自分を生かし活かすものが何かを知るには、

現状を一旦全て白紙に返すことが最も近道であると考える。


それはもしかしたら、

赤ちゃんのようになるということかもしれない。


私たちは、

自分の本当の声や自分で確認したものではなく、

誰かの言葉や情報、教わった知識などを信じ、思い込み、

それに基づいて行動することも多い。


それでは本当に自分に必要なものを知ることは難しいだろう。


生かし活かすには、

目の前にあるものを、そのまま見る、聞く、感じる、

自分の体に合ったものや本当に体が求めるものを食べる、飲む、

ということが大切だと思っている。


そのためには、

今持っているものをリセットする必要があるだろう。


物事を判断するときに用いる基準を捨てたり、

しばらく断食したりすることによって、

こころや体は入ってくるものに対して、

素直に反応するようになるはずである。


平等、公平

近頃はよく、「平等」、「公平」を意識する人が多いようだ。


しかし、人が求める平等や公平には、

他者との比較による感情やこだわりが

潜んでいることもあるのではないだろうか。


つまり、ある物事に対して、

「好き嫌い」や「良し悪し」という視点で見ることで、

不平等や不公平を感じるのではないだろうか。


例えば、強さとは、

何かを処理できる器が大きいということであり、

それは言い換えれば鈍感ということでもあり、

弱いということは、

逆に何かに対して敏感に反応することができるということで、

それは悪いことではなく、

何かから身を守ることにも役立つ。


すべての物事は、存在している時点で、

既に平等で公平なのであり、

もし不平等や不公平を感じたときに考えるのは、

他者と比較してどうかではなく、

自分がそれをどう感じているか、

そして、それをどう生かす(活かす)か、

ということかもしれない。

なるようになる

自然の世界では、
最も安定し秩序立った状態になったとき、
終わりを迎え、同時にまた始まるのかもしれない。

植物が種から生まれ、また種を成していくように。

同様に、人も、自然の状態においては、
精神的肉体的どちらかが、
最も安定し秩序立った状態になったとき、
死を迎えるのかもしれない。

しかし、死は、終わりではなく、
また新たないのちの始まりでもある。

始まったばかりのいのちは、
自分のなすべきことを知っている。

育つ過程で、様々な環境に遭遇しても、
そのなすべきことをひたすらやり遂げる。

そして次のいのちへ繋げていく。

人も肉体だけでなく、内面においても、
きっと自分の行く道を記憶している。

混乱したり迷ったりすると感じることは、
思い出そうとしている途中かもしれない。

慌てず、ゆっくり、
「なるようになる」を待つのがよいのかもしれない。

よりよい場所

人は、より良い環境で、より良い生活を望み、

それを得ようと躍起になることがあるだろう。


しかし、いま自分がいるところも、

元は過去に自分が選んだ場所であり、

いまここで何をするのか、

しっかりと確認してひとつひとつやり遂げることをせず、

次へ次へと求めても、思った結果が得られないこともあるだろう。


どこで何をするのかということは大事なことではあるが、

今あるものをどう使うのかということも大切ではないだろうか。


良いと思えないことをただ見ないようにと避けるだけでは、

結局そのことにとらわれ続けることにもなりかねない。


目の前にある物事がどういう意味を持つのか、

あらゆる角度から見つめ、検証して取り組んでいれば、

結論が出る頃には、

自然とよりよいと思える場所へ向かうことになるだろう。


疑い、拒否、否定

信じるという行為は、
疑う気持ちがあるから生まれ、
受け入れる、肯定することを認識することも、
拒否し、否定する気持ちの裏返しだと感じている。

そもそも、疑いを持たない人は、
信じるということを意識しないだろうし、
拒否したり、否定する気持ちを感じるから、
受け入れよう、肯定しようとするのだろう。


子どもたちは、疑いを持つことなく、
常識ではあり得ないような世界に存在することができ、
拒否や否定ということをされてこなければ、
どんな物事でも肯定し、受け入れないことはないだろう。

疑いや拒否や否定は、
自分ではない何かや誰かの考えを、
知らないうちに基準にしてしまったために、
生まれてくるものではないだろうか。

誰かや何かの「正しい」答えではなく、
自分の、こころからの「本当の」答えを見出し、
それに従って行動すれば、
迷いや悩みを持つこともなくなるのではないだろうか。

三方よし

 全て活かすという考え方は、

近江商人の、有名な「三方よし」の思想にもみられる。

 

 近江商人 - Wikipedia

 

自分だけではなく、相手も、

同時に社会までもよくなるようなことをする。


これは、商売だけでなく、

どんな所においても適用できると思われる。


自分がしようとすることが、

誰かにとっては不愉快なことだったり、

その行動が環境やバランスを損なうとしたら、

もう一度考え直す必要があるだろう。


全てを活かすことがどうすることか、

わからなくなったときは、

三方よしに照らし合わせてみるのもよいかもしれない。



この他にも、

近江商人の思想や行動哲学は、

今まで紹介してきた法則と重なることが多い。


自然の基準で生きることが、

無理がなく、正当な生き方なのだと、

昔から知られていたのだろう。